竹中重固~竹中重固~文政11年(1828年) - 明治24年(1891年)) 江戸幕府の旗本、若年寄。 官位は従五位下、遠江守、丹後守。 元は戦国時代の軍師、竹中半兵衛重治の子孫。 別名、吉野春山(しゅんざん)。 万延元年、本家の美濃岩手五千石竹中重明の養子となる。 大番頭・陸軍奉行を経て慶応3年若年寄並陸軍奉行。 鳥羽伏見では若年寄並陸軍奉行。幕軍が負けたため責任者として一切の役職を罷免し、官位剥奪される。 官軍と抗戦する為純忠隊を結成。彰義隊と行動を共にするが、5月15日の官軍攻撃により壊滅し、奥羽へ転戦する。 仙台で榎本武揚と一緒に箱館へ向かい、蝦夷共和国では海陸裁判所頭取となる。 鳥羽伏見では土方さんのほうが全然下だったのに、箱館では土方さんの下にいたのね。 いつの間にかいなくなっちゃったんだよね(爆) 箱館戦争終了前に東京へ向かったらしい。(←脱走したの?!) 明治2年5月28日、養父竹中重明の薦めにより自首した。処罰として領地没収、除族のうえ、福岡藩預となる。のちに養父竹中黄山預りとなる。 明治4年(1871年)、竹中黄山が北海道に入植する際、一緒に同道する。 明治5年(1872年)、士族の困窮を憂い、北海道殖産事業についての建白書を提出する。 明治6年(1873年)、一切の罪を許され、東京府に召還され、出仕するが、明治8年(1875年)、辞職した。 その後、実弟の竹中元賀が経営する蓬英社に入社し、殖産事業に尽力した。 菩提寺は高輪泉岳寺。 でもまぁこの方なんとなく好きではなかったけど士族復帰もせず、男爵の話もけり、平民のままでその生涯を終えたそうだ。 そう聞くとこの人もこの人なりに新政府にはいろいろ思うところがあったんだろうなぁ。 |